(2015年/日本)
【監督】
牧原亮太郎
【キャスト】
細谷佳正
村瀬歩
楠大典
花澤香菜
三木眞一郎
山下大輝
大塚明夫
菅生隆之
*感想
ノイタミナムービーのProject-Itoh三部作の第一作目は、夭折した伊藤計劃が遺した序文とプロットを元に円城塔が書き継いだ「屍者の帝国」が原作。
アニメーション制作はWIT STUDIO。
舞台は、ヴィクター・フランケンシュタインによって屍体の蘇生技術が確立され、「屍者」が物言わぬ労働力として世界の産業や文明活動、はたまた戦線までをも支えている19世紀。
医学生ジョン・H・ワトソンは、早逝した親友フライデーとの約束のため、彼の屍者化を違法に試みる。
21グラムの魂は何なのか、それはどこに宿るものなのか?
秘密諜報機関ウォルシンガムにその明晰な頭脳と執念を買われたワトソンは、極秘任務を与えられ、記録係の屍者フライデーと共に旅に出る。
それは、フランケンシュタイン博士が創った最初の屍者ザ・ワンを生み出す秘術が記された「ヴィクターの手記」を探す旅だった。
*以下、ネタバレを含みますので未見の方は閲覧注意。
「Project-Itoh」…伊藤計劃の書き記した「虐殺器官」「ハーモニー」、そして伊藤計劃と円城塔の共著「屍者の帝国」を劇場アニメ化しようというプロジェクト。
この三部作には昨年の制作発表時から注目していて、大きな期待をしていた。
しかし先日、「虐殺器官」を制作していたプロダクション「マングローブ」が倒産となったそうで、残念ながら「虐殺器官」の公開延期が決まってしまった。
そういった情報も頭の隅に置きながら「屍者の帝国」の鑑賞となったわけだが、第一作となった今作はまあ可もなく不可もなく…みたいな、そんな感じで観終わってしまった。
原作を分かりやすく改変して上手くまとめてあったと思う。
ワトソンとフライデーの関係を親友同士としたのが特に大きな改変だったが、ワトソンの行動理由が共感しやすく強いものになった。
でも、逆に原作でワトソンを突き動かしていたものって何だったんだろうという疑問が湧いてしまった。原作ではフライデーは少年の屍者で、ワトソンとは関わりがない。
それでもワトソンを突き動かしていたものが原作にはある。
では、それは映画版ではちゃんと描かれていただろうか?フライデーへの感情に隠れてしまってはいなかったか?
親友を屍者化するという狂気の沙汰に及んだワトソンが、その後平然とした顔でフライデーを伴っているのも不思議だ。
生気を失った顔で上半身を前後に揺らしながら歩くフライデーの姿。
屍者が街にあふれている時代だとしても、親しい者が屍者として動いているのを見て耐えられるだろうか。一緒に旅なんてできるのだろうか。
もちろん耐えられないからワトソンは「ヴィクターの手記」を解明しようとするのだが、そこらへんが少し腑に落ちない。
ワトソンがフライデーへの執着を持つことで、ハダリーとワトソンの関係が脇に追いやられてしまった、そんな風にも思った。
死んだ友人の魂を取り戻そうとする旅の途中では、ハダリーとの関係は脇道になってしまう。
いじわるな見方をすれば、「お前、親友があんなことになってるのに女とキスなんてしてる場合か」ということになってしまう。
どうやら、フライデーを親友扱いにしたことで作品に入り込みやすくはなったものの、大きな改変はいろいろと齟齬が出てきてしまったような、そんな気がする。
アニメ作品で重要な映像面については文句なし。
キレイな作画だったし、キャラクターデザインも大勢に受け入れられるものだろうと思う。
Mのヒゲとかボサボサ白髪がかっこ良すぎるのが少し気になったが、中盤で出てきた山澤の眉毛を見て全部吹っ飛んだ(笑)
あそこまでキャラクターを物語る眉毛もそうないのでは。山澤さんの眉毛は必見の価値がある。
ワトソンもまあ好感の持てる青年みたいな感じだったし、バーナビーも無難に手堅かった。フライデーが少年ではなく親友になってしまったので、「で、でけえ!」と思った。
クラソートキンはとても少年っぽくて少しイメージと違ったかな。個人的には短髪メガネの冷酷微笑お兄さんという感じだったので。
ハダリーはもう少し松本零士寄りでも良かったんでは…みたいな(笑)(←勝手言ってるw)
というか、映画版のハダちゃんは、ちょっと微妙だったんですよね…。
デザインも表情も悪くないんだけど、花澤香菜さんの声が若すぎて細すぎて合ってない感じがした。
ハダちゃんはバストショットがゴージャスな人なので、中堅以上の声優さんにやってほしかった思いがある。(平たく言うと、20代前半を思わせる声にあの豊かなおっぱいはアンバランスだった。好きだけど…)
ハダ澤香菜さんは今回はミスキャストじゃないかな…。

分かりやすくしてるとはいっても、やっぱり原作で補完しないと難しい作品かもしれない。
クライマックスではそれぞれの思惑が交錯してけっこうややこしいことになってるし、ラストとエンドロール後の解釈とかもそうだ。
Mの本名が何なのか明かされるだけでCパートの展開はもっと面白くなるんだけど、映画版ではそのことに触れないどころかむしろその設定捨ててるような気さえしてモヤモヤしてしまった。
「ホームズお前笑ってるけど実はワトソンはな…!」って言いたくなってしまう(笑)
「屍者の帝国」というタイトルから感じられる「狂気」もさほどゾクゾクするものはなかったのではないだろうか?
グロテスクな部分もあるにはあるが…。
(ただ、カラマーゾフたちの晩餐の風景はなかなかに怖かった)
個人的には、全員が全員屍者化したら世界はどうなるのか、希望も絶望もない、静かな無意識に世界が満たされるならそれはひとつの幸福な世界の実現ではないのかというテーマを、もっともっと掘り下げてほしかった。
そして記録者としてのフライデーについても、この物語がフライデーの記録によるものという印象はほとんど感じられない。
これらについても「わかりやすさ」を求めたのか、あまり踏み込まずにサラッと描くに留めている。
文句ばかりになってしまったが、この作品を楽しむ方法もひとつ見つけた。
それは、ワトソンとフライデーを原作の著者・円城塔と伊藤計劃に置き換えて見ることである。
早世した伊藤計劃(フライデー)が遺した書きかけの物語(21グラムの魂)、残された盟友・円城塔(ワトソン)がその完成形(「屍者の帝国」の完成)を追い求める物語と捉えると、なんだかとてもしっくりくる。
これは、ワトソンとフライデーを親友という設定に変えたからできる見方だ。
「求めたのは、21グラムの魂と君の言葉」
劇場アニメ「屍者の帝国」は、フライデー(伊藤計劃)の言葉を求めてあがくワトソン(円城塔)の物語だった。
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