
シークレット・ウィンドウ(2004年/アメリカ)
【監督】
デヴィッド・コープ
【キャスト】
ジョニー・デップ
ジョン・タトゥーロ
マリア・ベロ
ティモシー・ハットン
チャールズ・ダットン
レン・キャリオ-
感想(2015年4月12日、TV録画にて鑑賞)
ジョニー・デップの素顔?が見られるミステリー映画。
スランプに悩み山奥の山荘で孤独と闘う作家を、濃いーいメイクやキャラでお馴染みのジョニデが素に近い感じで演じる。
もちろん演技である以上、本当に素のジョニデではないわけだが…。なんて言ったらいいんだろう…。とにかく、白塗りじゃないジョニデが見られるってことだけはどうしても伝えておきたくて…(笑)
監督のデヴィッド・コープは「チャーリー・モルデカイ」でもジョニー・デップとタッグを組んでおり、やはり白塗りはしなかった模様(笑)(あれはティム・バートンの専売特許なのか…)
なお、コープ監督は映画監督よりも脚本の人らしく、ライミ版「スパイダーマン」や「ジュラシック・パーク」「ミッション・インポッシブル」などのヒット作の脚本を手がけた凄い人だった。
たぶん2度目の鑑賞なのでだいたいのオチは憶えてる状態での鑑賞。
それでもやはり、ジョン・タトゥーロ演じる粗暴な男の理不尽な要求は中々にインパクトがあり、実はオチ以外はけっこう忘れてたりもしたので、初回と同じ所でまたハラハラしたりした。
主人公がスランプと謎の男の不当な要求によって追い詰められていくこともそうだが、妻との離婚調停や妻の新しい男とのいがみ合いが、さらに主人公の精神を蝕んでいくのだろうと思った。
アメリカ映画ってむしろ離婚してるのが普通…くらいの勢いでこの設定が出てくるけど、これって流行りなのだろうか?それとも、もはや基本形?
ファミリー映画ですら両親が離婚してたりとかあるわけで…。
そうか、みんな離婚するために結婚するのか…。
※以下の文章はネタバレ含むので、まだ見てない人は閲覧注意です。
自作自演乙…なオチだったんだけれど、終わり方が面白いと思った。
主人公はいつものように町に買い物に出かけ、町の住人たちと言葉を交わす。
しかし、住人たちは彼を恐れて避ける。彼が殺人者であることをみんな知っているのだ。
老保安官も主人公のもとへやってきて、「今は無理だがいつか必ず捕まえる」と宣告する。
映画の前半ではまるで頼りになりそうもなかった老保安官がなにやらかっこいいのである(笑)
そして映画は主人公が被害者の遺体を埋めたと思われる庭を映して幕を閉じる。
つまり、作品の中で主人公は裁かれることはないのだ。
主人公が妻やその恋人を殺したことは映画を見る者からしたら明白なのに、あえて逮捕されるシーンを描かずにその直前で終わらせたことは、一体何を意味するのか。
私はこれを、「主人公を主人公のまま終わらせたかった」のではないかと勝手に推測してみる。
仮に逮捕される主人公を描くということは、映画の中で主人公の罪を客観的に描写することであり、主人公の膨らみ過ぎた自我がもたらす惨事を描いたこの映画の結末としては合わないような気がする。
あくまでも主人公の主観で物語が語られるから、見る者が騙されるのであり、主人公と一緒になって状況の理解に苦しむことができる。
仮に結末で主人公が逮捕されると、主人公が主人公の座から引きずり下ろされる形になる。
そうなると主観を引き継ぐのは誰か?
謎の男は実在しない、妻ももう既にいない、残っているのは保安官や警護を依頼した友人くらいで、主人公を交代するには少し不足である。
そもそももう描くべきものは描き切っており、今後逮捕されるかもしれないという示唆もあるから、物語は決着してるのである。
だから主人公がいまさら退場する必要はない。
彼はもしかしたら裁かれないのかもしれないという一抹の不安を残したまま終わった方が、印象に残るということなのだろうと思った。
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