世界の果ての通学路(2012年、フランス)
【監督】パスカル・プリッソン
感想(2015年1月25日、TV録画にて鑑賞)
ケニアのサムブル族の少年ジャクソンと妹サロメは、野生の象やキリンを避けながらサバンナを駆け抜ける。彼らが向かっているのは学校。
毎朝彼らは15km離れた学校への道のりを2時間かけて通い続けている。
世界にはジャクソンの他にも大変な道のりを経て学校へ通っている子供たちがいる。
アルゼンチン、アンデス山脈の人里離れた牧場で暮らすカルロスは、雄大なパタゴニア平原を愛馬の背に揺られて通学し、ベルベル人の少女ザヒラはモロッコのアトラス山脈を臨む山奥の村から寄宿学校へと通い、インドで暮らす生まれつき足が不自由なサミュエルは弟たちの引く車いすで登校している。
彼らは危険も顧みず、学校に向け道なき道を進んでいく。
「通学」をテーマにしたドキュメンタリー作品。
ところが見てみると通学に見えないんですよね(笑)
これはむしろアドベンチャーでありロードムービーであり……。
野生のゾウやキリンを避けながら小走りで2時間とか、馬の背に揺られての通学途中で祠に寄って旅(通学)の安全を祈願したりとか、山道で足を痛めたのでヒッチハイクしてなんとか寄宿舎に着いたとか、ガタガタの車椅子を力任せに押しているうちにタイヤが外れて修理店に寄ったりとか……。
信じられないけどこれ普通の少年少女の通学風景で、しかも「行き」の話なんですよね。
このドキュメントでは学校にたどり着いて授業に臨むところで終わりで、「帰り」の道程までは描かれてないんですよ。
なのに、このアドベンチャーっぷり。まずはその世界の果ての通学風景に素直に驚きました。
次に思ったのは、「どうやって撮ったんだろう?」ということ。
ドキュメンタリーを撮るときには、「事実」と「真実」どちらを見る者に伝えるかで、編集方法がまったく違ってくると思うんですよね。
ほぼ一発撮りでありのままの事実を映しだすのか、真実の姿を訴えるために効果的な編集をしていくのか……。
私が思ったのは、これってたった一日の出来事なんだろうか?ということ。
出発から到着までたった一度の登校を一発撮りで撮ったにしては、ちょっと出来すぎだと思ったんですよね。
例えば、インドの三兄弟の車椅子による通学は、狭い道でトラックが立ち往生しているのが(映画的に)絶妙のタイミングだったり、タイヤが外れてしまうのも映画的にラッキーなアクシデントですよね。
もしかしたら、この作品は何日か子どもたちに寄り添って撮影したものを一日の出来事のように編集しているのかもしれません。
そして、もしかしたらアクシデントのいくつかは最初から予定にあったのかも……なんて疑心を抱いてしまうほど、面白い通学風景でした。
まあ、編集の云々はこのドキュメントの場合あまり重要ではなくて、要は「世界にはこんなに大変な道程を通ってでも勉強をする子供たちがいる」ということを訴えたいわけですよね。
単に「へー大変なんだね」ではなくて、「では、教育が行き届いている先進国の我々はどうか?」っていうことを暗に問いかけてくる作品。
映画の終わりでは、子どもたちが将来の夢をキラキラした目で語ります。
「パイロットになりたい」「医者になりたい」
そのために大変な道程を通うことも苦にしていない。むしろ学べることに感謝している。
その真摯な姿勢には恐縮しました。それに比べて日本は……ハァ、とも思いました。
でも、そんなお説教じみた話で終わるのはなんかイヤですね。
できれば、このある種異常な通学風景は、世界全体の歪みとして捉えたいですね。
立派な将来の夢を持ってとんでもない距離を移動する子供たち。
ですが、彼らが通っているのは小学校や中学校に相当する教育機関で、お世辞にも高等な教育とは言えないんじゃないでしょうか?
物凄い苦労をしてたどり着いた学校での授業内容は、果たしてその苦労に見合うものなのでしょうか?
近所に小学校があるのが当たり前の国で育った私には、山奥から4時間かけて登校する(往復8時間)彼らを見て不平等さを感じました。
せめて、基礎的な学問くらいは集落や家庭の中で学べないのか……。
逆に言えば、親が基礎的な学問を教えられないほどに教育が長らく行き届いてなかったということで、これは是正されるべき国際社会の歪みだと思います。
そしてもう一つ思ったのは、そういった過疎地の子供たちが夢を叶えて世界に羽ばたいていくと、彼らが育った家や集落はやがて朽ちてしまわないか、ということ。
もちろん、個人が個人の夢を叶えるのは素晴らしいことだし、他人がそれを止めることはできませんが、それによって失うものもあるのではないかと。
部族社会が作った古い文化は教育によって廃れていくのかもしれません。
教育にはそういった側面もあるのかもしれないと思いました。
- カテゴリ カテゴリ:
- ドキュメンタリー映画