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フラクタル

【監督】
山本寛
【アニメーション制作】
A-1 Pictures
【キャスト】
小林ゆう
津田美波
花澤香菜
井口裕香
浅沼晋太郎

感想

2011年1月から全11話が放送されたSFアドベンチャー・アニメ。
いろいろと発言が自由なことで知られる山本寛が監督を務めた。
彼のアンチファンが失敗作としてよく挙げる作品なんだけど、某アイドルアニメで山本寛作品にふれた私としてはちょっと気になる所もあり、自分の目で確かめる意味も込めて見てみた。



■敗北する物語

舞台は、フラクタルシステムという機構によって人々が居ながらにして幸福を享受できる時代。
人々は自分の分身<ドッペル>(アバターのようなホログラム映像)を使って場所と時間を問わずに生活できる。
物質に頼っていた前時代のライフスタイルは絶え、超個人主義社会が形成されている。

そんな世界にあって、主人公の少年クレインはドッペルを持たずに生身の身体で生活している。
旧時代のガラクタ同然の機械に憧れ、それらヴィンテージをいじるのが好きという珍しい趣味の男の子なのだ。

ある日、彼が海岸沿いを自転車で走っていると、飛空挺に追われる一人の少女と出会う。
彼女の名はフリュネ。フラクタルシステムを司る<僧院>の巫女フリュネを助けたクレインは一目で恋に落ちる。
だが、フリュネはクレインの前から姿を消す。

そしてフリュネの残していったブローチからは、もう一人のヒロイン、精巧なドッペルの女の子ネッサが現れる。
クレインはネッサやレジスタンスと共に、フリュネとフラクタルシステムを巡る戦いに巻き込まれていく……。

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うーん、2週かけて一気に全11話を見たけど、正直なんの感動もなかった…。
この作品は何を言いたかったのか、何を描きたかったのか。
ただただ物語の展開を「ふーんそうなんだ」と淡々と受け止めただけ。

「これはすごい!」と思える要素もほとんどなかった。
ジブリアニメとナディアと世界名作劇場を足して割ったような雰囲気は、空から少女が降ってくるなど、第1話から既視感に溢れていた。(空から女の子が降ってくるアニメは名作のはずなのに…)

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一方で、物語の3話からは、唐突に陰惨な内容も含むようになってくる。
僧院VSレジスタンスの、民間人を巻き込んだ銃撃戦。
そして終盤では、フリュネの身体に刻まれた肉体的・精神的な傷痕の秘密が明かされる。

クレインやネッサ、レジスタンスのグラニッツ一家が織りなす日常的なほのぼした光景も描かれながら、暗く陰鬱に落とす所はけっこう深刻な内容をあっさりと表現している。
それはある意味で現実の厳しさを、生きることの冷酷さを表わしているとも言えるけど、それにしてもその展開は必要?…と疑問に思ってしまう。(似たようなことは監督が後に手がけた某アイドルアニメでも少しだけ思った。この監督の個性なのかもしれない)

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最終的に主人公は、フリュネとネッサを奪おうとするフラクタルシステムに抗うことになる。
一緒に行動するグラニッツ一家が参加する抵抗勢力<ロストミレニアム>の目的は、フラクタルシステムを破壊しシステム以前の自然なライフスタイルを取り戻すこと。
そして僧院の目的は、鍵となるフリュネとネッサを取り戻し、崩壊しつつあるフラクタルシステムを再起動することである。

僧院に囚われてしまったフリュネをクレインとネッサが助けに行くのは自然な流れだけど、そこに違和感を感じた。
違和感というか、「あーそっちには行くな行くな」という感じ。
クレインたち3人にとっては何より「逃げる」ことが一番安全なのだが、待ち構えている敵の前に何故か自ら進んでいってしまう。

そして、あの決着。そりゃそうだよな、という感じ。
最初から勝ち目のない闘いに、勝算もなく突き進んでいく。
たった一つの小さな希望(それ自体も根拠が怪しい)も打ち砕かれたフリュネは、哀しい宿命を受け入れてしまう。
この作品は敗北へと向かっていく物語だと思う。

運命を受け入れることも、敗北を認めて諦観することも、それ自体がダメなわけではないと思う。
ただ、この作品は、なぜフリュネがそれを選んだか、クレインがどうやって納得して歩んでいったかが充分に説明されていないように思う。
だから、フリュネの行動が自分勝手で時になげやりに見えるし、クレインは自分の意志を持たない傍観者に見えた。
そしてこの物語が結局何を伝えたかったのかさえ、分からないまま終わってしまった。



■フラクタルとはなんだったのか

説明不足というのは、登場人物たちの感情だけではなく、物語の設定についても言える。
フラクタルという名のシステムによって安寧が約束された世界。
人類の叡智がついに到達した理想郷で、それは人間生活の在り方すらも変えてしまうほどだった。

しかし劇中で語られるのは、ドッペルを含む拡張現実と、人々が空中に浮かぶ<星>によって体内のフラクタルターミナルを定期的にアップデートしているということだけで、フラクタルがその技術をどう維持しているのか語られないし、ドッペル使用中の人間はどういう状態なのかも全話を通してワンカットしか描かれない。

まして、そのシステムを再起動するために必要なのが選ばれし少女の肉体と魂なのだから、フラクタルシステムは科学技術というよりも魔法の類だ。
「充分に発達した科学は魔法と見分けがつかない」というが、この作品の場合は何一つ根拠を示さないので「本当は何も考えてないんじゃ…」という疑念が頭をよぎってしまう。
(ちなみに同時期に放送された「まどマギ」は、少女の魂が必要とされる納得できる理由を示していた。あちらはファンタジーなのに…)

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主人公クレインの立ち位置もまた微妙だ。
拡張現実が溢れる世界において、その恩恵を自ら望んで受けていない子供なのだ。
しかも早々にシステムを否定し前時代の生活を取り戻そうとするレジスタンスと合流してしまう。
だから、クレインを通してフラクタル社会がどのようなものかを知ることもできない。

そもそも「フラクタル」というタイトルの意味すら回収してない。
全体の構造と部分の構造が同じ、もしくは似通っている、それをフラクタル構造と呼ぶ。
全体としての複雑さが、細部を拡大しても同じように複雑な状態のことらしい。

これを物語の構成や世界観に当てはめたらどうなっていただろうか。
ストーリー原案として参加した東浩紀は哲学者でもあることだし、このフラクタルという概念を持ち出したのには何か理由があったはずだ。
しかし、結局は何をやりたかったのか、伝えたかったのかは不明なまま終わってしまった。
このアニメのどこにもフラクタルという概念を象徴するものは見当たらない。



■絶望の中の癒しと飽きない興奮

長文でひたすらこき下ろしたようになってしまったので、ここで評価できる点を挙げておこうと思う。
評価できる点は大きく二つ。花澤香菜演じるネッサがよかったのと、オープニング映像と主題歌がよかったことだ。

ネッサは、10歳という設定のドッペルで、データに過ぎない存在だ。
しかし、天真爛漫な性格や「ネッサは好きのことが好き!」など幼さの残る言動が物語の癒しとなっていた。(終盤はその癒しを上回る絶望っぷりだったが…)

さらにそこに声優・花澤香菜の声が入ることでさらに存在感を増したと思う。
私はざーさんのファンというわけではないが、ネッサの中の人が花澤さんでよかったと思う。

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オープニング映像は、幾何学な模様が七色に輝きながら変幻自在に動く、万華鏡のような映像。
キャラクターは一切登場せず、アニメのOP映像にありがちな安易なキャラ紹介に走らないで面白いと思う。
最後だけ、ネッサのシルエットの集合からより大きなネッサのシルエットにズームアウトする演出があるが、これが唯一フラクタル構造を語った部分だと思う。

そんなOP映像にのせて流れるのは、AZUMA HITOMIの「ハリネズミ」という歌。
背中の針で傷つけあいながらも求めあってしまう不器用さを、エレクトリックなアレンジでアップテンポに歌い上げた曲で、AZUMA HITOMIの落ち着いた声がノスタルジーを彷彿させる。

この曲と映像のインパクトは大きく、視聴していてOPだけは毎回テンションが高かった。
不思議なことに、キャラが一切登場せずともまったく飽きずに最後まで見た。
(ところでOP絵コンテってこの場合どうやって描くんだろうか…)



まあ、いくらOPが神曲でも、本編がイマイチならば作品の総評もイマイチにならざるをえない。
やはり、上で散々書いたように、この作品はどこかちぐはぐな内容のアニメだった。

山本寛監督はこの作品を「ディスコミュニケーションの羅列。それが自分にとっての、アニメに携った十数年のリアリティだった」と語っている。
つまりアニメの現場で感じた理不尽な、噛み合わない思いの数々を、この作品で表現したかった、という意味だと思うが、結果的に作品と視聴者の間でディスコミュニケーションが発生してしまったのかもしれない。



この作品が終盤を迎える頃、東日本大震災が起こった。
同時期に放送されたまどマギなどは最終回を延期する措置がとられた。
このフラクタルがどうだったかは分からない。当時はリアルタイムでアニメを追っていなかった。

ヤマカンこと山本寛監督は、被災地でボランティア活動を経験したという。
そして、それによってもう一度アニメを作りたいという思いに至ったそうだ。
そうやって作り出された作品(Wake Up, Girls!)には、絶望に負けずに立ち上がれ!という思いが込められている。

本当の絶望を知ったからこそ希望を描けるのかもしれない。
「フラクタル」は、絶望の退廃的な美しさに毒された、ひとりよがりの作品だったかもしれないが、WUG!はその絶望を乗り越えた希望の物語だと言えるだろう。
なんだかんだで、この山本寛というアニメ監督のことは嫌いになれないのである。