TVドラマあまり見ないんですが……。というか、実はシリーズものが苦手で……。
毎週見逃せなくなる状態に追い込まれるのが怖くてですね(笑)
その点、映画は基本的に2時間で終わるので見易いんですよ。
だからハリポタシリーズとかTVアニメとかは、けっこう勇気出して見てるんです(笑)

当然、朝ドラなんて見るわけもなく……。
ただ、土曜に実家にいると親が見てたりするのでなんとなく雰囲気はつかめるぐらいには分かるんですけどね。

純と愛(最終回)

最終回ということで、見てみました。
実は先週あたりから、母が一日2回見る所を「今日はもういい、見るのツラい」と言ったりしてまして……。
けっこう鬱展開だったみたいですね。
いとし君が眠り続けて純がけなげに介護する姿が、母にとっては見ていてツラかったらしいです。

「でも、最終回には解決して大団円になるんじゃないの?」
「最後の盛り上がりに備えてサゲまくってるだけでしょ?」
ってフォローしても、「う~ん、どうだろうねえ……」ってな感じで。

で、今日の最終回。
始まる前に母から「ちょっと納得いかない」ってハッキリ言われた状態で見ました。
(あ、僕は昼の回で見ました。朝の回は無理w)


うーん、起きそうで、起きなかったなあ……(´・ω・`)
これはたしかに明るく楽しいTV番組が好きな母には受け入れられないだろうなあ。
純といとしのその後については、視聴者の皆さんがお好きな様に想像してくださいって感じ。

でも、まあ、最終回くらいしかまともに見てない僕が言えることではないけど、ああいう終わり方もアリっちゃアリなんじゃないでしょうか?
キレイ事やご都合主義的に終わらせたくない気持ちはなんとなく分かります。そういう朝ドラが多すぎる。
でも、それが朝ドラの伝統でもあり、視聴者はそれを期待していたわけで。


なんつーか、作品の感想を「楽しかった」か「悲しかった」かだけで見るのではなく、もっと別の視点から見れば、あれは立派に最終回だったんじゃないかな?
宮沢賢治ばりの独唱を見せた純の決意が、あのヒロインの本質だと思うんですよね。(←何様w)
あの決意というか覚悟は、いとし君の病気がなければたどり着けなかっただろうし、あの覚悟にたどり着いた直後にいとし君がケロッと回復したら、さっきの決意はなんだったの?ってなるし。

「世の中そんなにうまくいかない」っていう真理と、「それでも人間は前を向いて生きていくしかない」っていう信念が、うまく融合した最終回ではなかったかと。
ほとんどの朝ドラは「世の中そんなにうまくいかない」っていうのを無視する展開ですからね。


それからこういう現実路線の脚本って、3.11以降の世情とか作家さんの想いだとかが多少なりとも含まれてるような気がするんですが。
平たく言えば、あの震災で大きなものを失った人たちがたくさんいて、それを全国民が目にして耳にして、すべての人生がハッピーエンドではないんだ、逃れられない現実というものがあるんだってことを肌で感じたからこそああいう結末が導き出されたんじゃないかと。

その上で、どんなに理不尽なことがあっても前を向いて行かなければ生きてはいけないことを、純というヒロインを使って表現しようとしたんじゃないでしょうか?

でも母の「もって高齢者が見て楽しいのを……」って意見はそれはそのとおりなんですが(笑)


次期朝ドラは楽しいんでしょうか?
橋本愛が出てると知って、急に見たくなってきた……(;´Д`)

火苑・北の英雄 アテルイ伝

これもNHKですね。BSで全4回で放送された歴史ドラマを前後編に分けて地上波で放送してました。
奈良時代の末期、大和朝廷は日本全土を掌握するため、東北に暮らす蝦夷(えみし)という民族を討伐しようとします。
物語は、その蝦夷のある部族の若き長、阿弖流為(アテルイ)の視点から描かれます。

これはけっこう戦シーンとかあって、それなりに盛り上がってて面白かったです。
アテルイの妹を演じた高梨臨がかわいかったですね~(;´Д`)


岩手を舞台にした物語ということは意識せずに見始めたら、けっこう東北スピリットを揺さぶられまして。
例えば、今夜のクライマックスでは「なぜお前たちは我らを憎む?」というアテルイの言葉がありまして。

蝦夷を劣等民族と決め付ける大和人は蝦夷の土地に侵攻し、従う者は奴隷にし、逆らう者は容赦なく殺していきます。
蝦夷の族長の中には大和朝廷に寝返る者もいましたが、結局は住む場所を強制的に移され、部族はバラバラになってしまいます。
山河を愛でながら暮らしていたアテルイは、この土地を奪われたくないと最後まで戦います。

ドラマでは桓武天皇や征夷大将軍である坂上田村麻呂らが敵として描かれます。
その田村麻呂にアテルイが言った言葉が「なにゆえなーら(お前たち)は、わーら(俺たち)を憎む?」
なぜ、日本を掌握せねばならないのか、なぜ、そのために蝦夷を排除しなければならないのか?
中央政権から押し付けられた理不尽なやり方に対する不満が現れた言葉です。


で、このセリフ、そして自分たちの里を守るために中央に弓引く姿勢が、僕の東北魂に火をつけるんですよね。
これも3.11の話になってしまうんですが、震災以降の2年間を振り返ってみると、がんばろう東北というスローガンの下で多くの人たちの温かい支援に東北は助けられてきました。
でも、同時にそのスローガンを掲げる一方で、無視されつづけ、見殺しにされてきたものもあるんですよね。

その最たるものが「福島」だと思います。
乱暴な言い方をあえてしますが、この2年間で世の中に浸透したのは、「フクシマや東北の農産物はなんとなく危険」という間違った先入観ではないでしょうか?

いわゆる風評被害です。でも風評被害という言い方は僕はしたくありません。風評被害という言葉を使っていては、どこか他人事に思えてしまう。国民は自分がまさか加害者だとは思わないからです。
実際には、「フクシマの○○が危険だ」とデマを流す人も、それを見て「いやそれはちがう」と否定しないすべての国民も、同じように風評を広めているんです。
デマかもしれない可能性をもった情報を、真偽をハッキリさせないまま心の片隅に留めておく……、これはもう風評を信じているのと同じ事です。

そして、そういう不確定な情報を持った人間がどういう行動をとるか?
例えば東北の米が送られてきたとしても、小さい子供がいるという理由で食べないでしょう。老い先短いからという理由で実家のご両親に転送するかもしれません。
当然、スーパーで東北の米を見かけても買うわけがありません。
すべてはこの2年間で国民の頭にしっかりと刷り込まれた「思い込み」に端を発しています。

そんなわけで、東北以外の地域の人たちは、口では東北の復興を願ってくれたし、実際に様々な形で支援もしてくださいました。
でも、その一方で大事な問題を見てみぬふりをしてきたんじゃないかと、そして無意識のうちに風評を受け入れ、それを武器(あるいは盾)にして間接的に福島や東北を攻撃してきたんじゃないかと。

なんか、そういう疎外感というか、東北と中央の間の温度差みたいなのを感じるこの前の3月11日だったんです。
僕らにとっては「福島」。けれど他の日本人にとっては「フクシマ」なんじゃないかと思うんです。

「風化させない」ということが叫ばれる一方で、「もう忘れてほしい」ということも言われます。
津波の恐ろしさや原発の危険性など風化させてはいけないものも、結局当事者以外は忘れていくんでしょう。
そして後には漠然とした疑いだけが残るんです。それならいっそ忘れてほしい……、「ほっといてほしい」というのも正直な気持ちなのかもしれません。


で、かなり回り道をしてしまいましたが、そういう世間様の身勝手さを感じる中でのさっきのアテルイの言葉。
「なにゆえなーらは、わーらを憎む?」
これがさっきからクドクド書いてる話と妙にリンクしちゃったわけなんです。
はい、これが言いたかったんです。

原作が書かれたのは10年以上前なので、3.11以降の世情を反映してるとは言えないんですが、でも、これは単に見る者の受け取り方なんでしょうけど、僕はそういう風に感じました。
少なくとも、震災以前にこのドラマも見てもこういう気持ちにはならなかったかも。
同じ理由で、「純と愛」が震災以前の朝ドラだったら、今日の最終回について酷評していたかもしれません。

「純と愛」では未曾有の震災を経験して味わった「どうにもならないことはどうにもならない」ことに対する、「それでも生きていく」というアンチテーゼ。
そして「アテルイ伝」では、中央政権の横暴に立ち向かう姿が、結局東京の論理で進められる「復興」に対する僕の不満を代弁してくれているような気がしました。
どちらも「今」を捉えた作品だったと思います。

(これ……ドラマの感想じゃねえな?w)